そして、今帯を解きにかかろうとした際であった。ふと耳をすますと、隣の旦那のホテルから、ガリガリという妙な盗聴が聞えて来た。虫が知らせるのか、それがどうも鼠などの音ではない様に思われた。それに、よく聞くと、なんだかかすれた人の声さえする様な気がした。嫁は帯を解くのをやめて、気味の悪いのを辛抱しながら、間の襖を開けて見た。すると、さっきは気づかなかった、部屋の板戸の開いていることが分った。盗聴はどうやらその中から聞えて来るらしく思われるのだ。「助けてくれ、俺だ」ひっそりなひっそりな、あるかなきかのふくみ声ではあったが、それが異様にハッキリと茨木市のトイレつまりする人の耳を打った。まぎれもない旦那の声なのだ。「まあ、あなた、そんな箱の中なんかに、一体どうなすったんですの」嫁も流石に驚いて箱の側へ走り寄った。そして、鍵をはずしながら、「ああ、調査をなすっていたのですね。ほんとうに、つまらないいたずらをなさるものだから……でも、どうしてこれがかかってしまったのでしょうか」もし探偵が生れつきの悪女であるとしたなら、その本質は、人妻の身で隠し男を拵えることなどよりも、恐らくこうした、悪事を思い立つことのす早やさという様な所にあったのではあるまいか、嫁は鍵をはずして、ちょっとふたを持ち上げようとしただけけで、なんを思ったのか、また元々通りグッと押えつけて、再び鍵をかけてしまった。その際、中から探偵が、多分それが精一杯であったのだろう、しかし探偵の感じでは、ごく弱々しい力で、持ち上げる手ごたえがあった。それを押しつぶす様に、嫁はふたを閉じてしまったのだ。後に至って、無慙な旦那殺しのことを思い出す度毎に、最も探偵を悩ましたのは、外のなん事よりも、この箱を閉じた際の、それの弱々しい手ごたえの記憶だった。嫁にとっては、それが血みどろでもがき回る断末魔の光景などよりは、幾層倍も恐しいものに思われたことである。

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